こらん草 (一筆抄) 


―忘れられない人々&出来事―


                                                                                                                 
日夏 もえ子  


                                                   

                                               
                              
 
                                                              

       1. 李香蘭 (山口淑子 よしこ)  1920年2月12日~2014年9月7日   
               

    

 「君と僕」潮来ロケにて

1941年

左・李香蘭

   右・
日夏英太郎 


                 
              「平和は当たり前ではない。
そうじゃなかった時代を生きてきたのよ」
                                             
                                           李香蘭90歳の時の言葉
     
                               


    201497日に94歳で亡くなった李香蘭は、かつて朝日新聞のインタビューで、上記の様に語っていました。  
 
 1920(大正9)年2月12日に中華民国奉天省の北煙台で生まれた。
 佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母アイの
間に出生。
 父は、南満州鉄道株式会社で社員に中国語を教えていた。
 
 1931(昭和6)年9月18日に関東軍による満州事変が起こり、日本は中国進出を本格化させた。
 
  *満州事変
 
 関東軍参謀の石原莞爾(かんじ)や板垣征四郎らは、武力により満州を日本の勢力下におこうと計画した。
  奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破して、中国軍がやったと偽り、張学良の拠点北大営を攻撃した。


  1932年7月、関東軍は満州の主要地域を占領し、清朝最後の皇帝・溥儀を執政として満州国の建国を宣言させた。

  淑子は、1933(昭和8)年に父親の仕事の関係で、奉天(現瀋陽市)に移り、父親の友人である瀋陽銀行頭取の李際春の養子となり、「李香蘭」(リー・シャンラン)と名乗った。
  
  李は義理の父の苗字、香蘭は実の父の俳句を詠むときの号から名付けられたと言われる。

 (中国の旧習では、戸籍を移すことなく、互いの子女に名前を付け合うことがあったと言われる)

 親友のユダヤ系ロシア人リューバ・グリーネッツの母親の紹介で、イタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフに声楽を学んだ。

  淑子は、1933(昭和8)年に奉天ヤマトホテルマダム・ポドレソフが行ったリサイタルの前座として、着物姿で「荒城の月」など4曲を歌った。
 
 これを契機に
奉天放送局の新満州歌曲の歌手として抜擢され、中国人歌手「李香蘭」が誕生した(13才)。
 
 淑子が歌った「蘇州夜曲」は、満州中で大ヒットした。

  奉天放送局は、満州国建国と同時に関東軍によって作られた国策放送局であり、俳優の森繁久彌もアナウンサーとして所属していたと言われる。

 
淑子は、後に天津市長になった潘毓桂(ハン イクケイ)の養子ともなり、1934(昭和9)年に「潘淑華」(ハン シュクカ)の名で北京のミッションスクール(翊教女子中学)に入学し、1937年に卒業した。

 学校の休みの日には、歌手「李香蘭」として歌った。
 
 北京では、学生たちが抗日デモを行っていた。
 日本人は敵と見なされていた。
 中国人と偽らなければ、命の危険があった。

 学生デモのリーダーが淑子に「日本軍が北京にやって来たら、どうするのか」と尋ねた。
 淑子はとっさに「北京の城壁の上に立ちます」と答えたと言う。
 祖国は日本であり、生まれ育った中国は心から愛する国であり、どちらともつけない淑子は、玉に最初に当たって死ぬしかないという心境からだった。

  1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生し、日中戦争へと拡大し長期戦になっていった。
 
 淑子は、日中戦争突入後の1938年に
満州国の首都新京(現吉林省長春市)にある満州映画協会(甘粕正彦理事長)から中国人女優「李香蘭」としてデビューした。
 
 長谷川一夫と共演の東宝との日満合作「白蘭の歌」(1939)「支那の夜」(1940)「熱砂の誓ひ」(1940)の大陸3部作が大ヒットしてスターに。

  ちなみに私の父が演出した日鮮合作「君と僕」(1941)にも出演していただきました。
 
 1941(昭和16)年2月11日の紀元節の日に中国人女優・李香蘭として来日し、東京日本劇場で「歌う李香蘭」のリサイタルを開いた。

  入場出来なかった観客が日劇の周りを七周半も取り巻き、警察や消防が出動する騒ぎに(日劇七回り半事件)
  観客の目当ては映画「支那の夜」で歌われた「蘇州夜曲」だった。
  
 私は何度もこの曲を聴きましたが、山口淑子さんの透き通った甘く美しい声には、魅了されぱなっしです。
  
  君がみ胸に抱かれて聞くは
  夢の舟歌 恋の歌
  水の蘇州の花散る春を


  1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まった。

  淑子は満州映画協会から上海の映画会社「中華電影」に移籍した。

  
1943年には中華電影、満州映画協会などとの合作「萬世流芳」に出演し、この映画は中国映画史上
  初の大ヒットに。

     (
中国民衆の抗日意識を鼓舞した映画と言われています)

  この頃、上海で収録した「夜来香」(イエライシャン)「防空歌」「海燕」など、その澄き通った歌声は満州、日本だけでなく、中国の人々を魅了したと言われています。

    1945(昭和20)年8月15日に太平洋戦争は日本の敗北で幕を閉じた。
 

     淑子は、中国で始まった「漢奸」(対日協力者)摘発で訴追された(25才)。
  「中国人でありながら、中国を冒涜する映画に出演することによって、日本の大陸政策に協力して中国を裏切った」との理由からだった。

   新聞に「李香蘭が上海競馬場で12月8日に銃殺刑」との見出しが躍った。

   奉天時代の親友リューバの機転により、北京の両親から日本人形の帯に入れられた日本の戸籍謄本が届けられ、日本人であることが証明され、辛くも死刑を免れました。

  李香蘭が乗った日本への帰国船のラジオからは、彼女の「夜来香」が流れていたと言われます。

    彼女は「さようなら中国。李香蘭もこれでさようなら」と涙ながらに呟いたと言われる。

  日本と中国の狭間で激動の人生を送った李香蘭。


   1948(昭和23)年
「わが生涯の輝ける日」で山口淑子の名で銀幕に復帰(共演・森雅之)

    1950(昭和25)年の「暁の脱走」は、反戦映画として評判になった。(池辺良との共演)

    同年に三船敏郎と共演した「醜聞」の宣伝のためにアメリカへ。
 
   アメリカ映画に出演したいとの気持ちが湧き、アクターズ・スタジオに入門し、巨匠エリア・カザンの指導を受ける。

   シャーリー・ヤマグチの名で「東は東」などの米国映画に出演した。

 私生活では、渡米してハリウッド映画に出演していた頃に、ニューヨークで 彫刻家のイサム・ノグチ氏と知り合い、「戦争中は苦しかったでしょう。僕もアメリカと日本の間で苦しかった」とのノグチの言葉に心が動いた。

 アイデンティテイの悩みが同じで、互いに惹かれるものが強くあったということだろう。

  1951年12月に二人は結婚した。淑子31才、ノグチ47才だった。
 
 鎌倉とニューヨークに新居を構えたが、互いに多忙を極めたことも一因となり、55年に離婚した。

    ともに暮らした時間は1年に満たなかったと云う。

 (1952年~58年には、香港で映画「金瓶梅」「神秘美人」「一夜風流」などに「李香蘭」の名で主
  演した)
  
 
淑子にブロードウェイのミュージカル「シャングリラ」のプロデューサーからの出演依頼が入った。

 再びニューヨークへ。
 
舞台での主演を精一杯こなすも、「シャングリラ」は公演4週目で打ち切りに。

 
公演初日に、国連日本代表部に勤務する広報担当の外交官補の大鷹弘が楽屋へ訪ねてきた。
 
 始めは日本のイメージアップにラジオなどに淑子に出演してもらえないかなどとの相談だったが、
 公演が打ち切りになり失意の淑子を励ましてくれたことなどもあり、淑子に大鷹はかけがえのない人になっていった。

  1958年に大鷹氏と再婚し、女優業を引退し、夫の赴任先のミャンマーへ。

      1969(昭和44)年に、フジテレビ「3時のあなた」でワイドショーの司会をつとめることに。
  自ら進んでベトナム戦争の取材や、中東戦争の現場に赴き発信を続けた。
  1973年には、レバノンに飛び、赤軍派の幹部・重信房子の独占インタビューもした。

   1972年の田中角栄と周恩来首相との日中共同声明調印の折にはスタジオで一報を報じたが、淑子の身体は小刻みに震えていたと云う。

 「私の瞼には時局に翻弄され続けた李香蘭の姿が去来し、こみ上げてくるものを抑えることが出来なかった
   「李香蘭 私の半生」より

  1974(昭和49)年から参議院議員として日中友好などアジア外交に尽力しました。
   
  
自民党訪朝団の一員として、2度金日成主席と面会した。
   「私も李香蘭のファンでした。一曲歌ってもらえませんか」とリクエストされ、「蘇州夜曲」を披露したと伝えられている。
   
  
パレスチ自治区のアラファト議長とも面会し、国際問題に取り組み続けた。
  
  
平和を望む気持ちが、自らの日中の狭間で苦労した経験から人一倍強かった。

  3期18年、環境政務官、参議院外務委員長などを歴任した
   
  2014(平成26)年9月4日に永眠。

*私にとって李香蘭さんは、父・日夏英太郎が太平洋戦争を背景とした日韓インドネシア3国で激動の人生を送った姿にある意味重なって見えます。

        
ご冥福を心よりお祈りいたします。

                                                                            2015年5月28日記 
                                       



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