忘れられない人々&出来事        
                        
           
  

                                                     
 日夏もえ子


        
           
 3. 澤田美喜 
(さわだ みき)           
                                     
           1901年9月9日~1980年5月12日

      
                                                              

              二千人の混血児の母
                                                     
            
  エリザベス・サンダース・ホーム 創設

                                                     

 


                                   2015年7月6日記

    私は母親の希望で1958年と翌年の夏休みを神奈川県大磯の知人宅の2階の部屋を借りて過ごした
  とがあった。

   身体の弱かった母親の花子は、滞在することは出来なかったが、せめて娘の私を避暑地で過ごさせた
  かったのだろう。


    8月のある日、大磯駅まで花子を見送りに行った際、左手に「エリザベス・サンダース・ホーム」が
  あり、 花子から「三菱財閥の澤田美喜さんが混血児を引き取り、世話をされている施設なの」と聞い
  たことがあった。

     高校生だった私は、「立派な方がいるのだな・・・」と思った記憶がある。
  私の母は、翌年には病でかえらぬ人になってしまったが。

  日本は太平洋戦争(1941~45年)により、親を亡くした戦災孤児(1~20歳)は約12万人に上ったと
   言われる。

  
  孤児になった子供たちの多くは、親戚に引き取られ、あるいは施設に預けられた。

  しかし、浮浪児となり靴磨きをしたり、闇市の仕事に携わって生きる糧を得ていた孤児も大勢い
    た。

  少女の場合は、もっと過酷で、生計を立てるため身体を売って生きていくしか手立てがない場合も
    あった。

  
  焼け野原に闇市が立ち、やがて不法占拠のバラック旅館や小料理屋が建ち始めていた。
      駅前の闇市には、食糧不足、物不足のなか、買い出し客があふれていた。
  みんな生き残るのに精一杯の時代だった。

  日本を占領した米軍兵士と日本女性との間に生まれた乳児の死体が遺棄される場合がしばしばあっ
   た。

  
  三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、クリスチャンであった外交官の澤田廉三と結
   婚した澤田
美喜は、1946年混雑した列車の座席に座っていた。
   
  すると網棚から、風呂敷包みが美喜の手元に落ちてきた。
    列車に乗っていたヤミ物資取り締まりにあたっていた鉄道公安官が包みを開けたところ、黒い肌の
   乳児の死体が入っていた。
   
      このことが契機となり、美喜は混血児救済にそれからの半生をかけることになったと言われる。

  
 
 澤田美喜は、1948(昭和23)年2月に「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設し、2000人近い
   混血児を育て上げたと言われます。

  施設を造るのも大変でした。
  戦後の財閥解体により、岩崎家は財産が接収され、元手がなく、施設として目を付けた大磯の別荘
   も財産税の代わりに物納されていました。

    美喜は、さまざまな物を売り払い、借金と寄付により別荘を買い戻したと言われます。
 
    孤児たちが次々と加わってきましたが、資金繰りは厳しく、ミルク代もない時もあったようです。
    それでも善意な方々に助けられてなんとか維持が出来たと言われます。

 「エリザベス・サンダース・ホーム」は、在日40年になるイギリス人女性が遺言で176ドルの寄附を
   してくれたその方の名前に因んでいます。


  1949年には、ホームの寄付金を募るためアメリカで講演会を行ったと言われます。
 
    当時、ホームのこどもたちに向けられる世間の目は、差別と偏見でいっぱいだったと言われます。
   
  心ない大人たちから投げられる偏見に満ちた言葉などから守り、人間としての尊厳を保てるように
    1953年に敷地内に小学校と中学校の学校法人「聖ステパノ学園」を創設したと伝えられています。

  (ステパノは美喜の戦死した三男・晃の洗礼名)
  
  1962年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。
  孤児院の卒園生が数多く移住。

 
      また、日本より偏見の少ない米国への養子縁組をすすめ、500人以上を送り出したと言われます。
 
  澤田美喜は、1980年5月12日、旅行先のスペイン・マジョルカ島で心臓発作のため急死しました  
     (78歳)。

 


 

 
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