こらん草 (一筆抄)

            忘れられない人々&出来事        
                        
           
  

                                                     
 日夏もえ子


        2.女優  岡田嘉子(よしこ)            
                     
1902年4月21 ~92年2月10日

      
                                                              

      「 自分が命をかける恋は、この人しかいないと、まず直感した」 

                                
 
岡田嘉子

                     (杉本良吉の演出を受けて)

                                                     

 

 


                                        2015年9月6日記

 大正・昭和の軍国主義高らかな、あまり自由に物が言えなかった時代を、奔放に、悩みながらも自我を貫いて生きた女優・岡田嘉子。

 いつか、岡田さんのことは書いてみたいと思っていました。

 たまたま、7月13日にBSフジで『歴史に秘めた恋物語 岡田嘉子』を放映していましたので、参考にしました。

 岡田嘉子は、 新聞記者で演劇に造詣が深い父の影響もあり、新劇女優・松井須磨子の「サロメ」を観劇する機会があり、演劇に憧れを覚え志すようになる。
 家では、タマゴの割り方も知らなかったお嬢さんだった。 

 1919(大正8)年、新芸術座が有楽座にて行った「カルメン」の端役で18歳にて舞台女優のデビューを果した。
 
   新芸術座が解散後、新文芸協会の東北巡業に参加したが、早稲田大学の予科の学生で座員の服部義治(よしはる)と無知のまま関係を持ち10代で図らずも妊娠。
 男児を出産して、嘉子の弟として、岡田家の籍に入れた。
 服部は結婚を望んだが拒否。
 
   1921(大正10)年、舞台協会の帝劇公演『出家とその弟子』に出演して、看板女優になっていった。
 舞台協会の主催者であり、共演者でもあった山田隆也(32才)と恋仲になったが、山田には50歳の演劇界を仕切るパトロンの妻・高屋福子がいた。
 
 元、モスクワ日本人事務局長で岡田の世話をした神奈川県在住の松沢さんは

「あの人にだけは負けたくない。だから私はお金を稼ぐ。お金を出して芝居を作るから」と、当時を振り返り岡田が

語ったことをBSフジ 『命懸ける恋 ~ 日本・ソビエトを生きた女優 岡田嘉子 』述べています。
 
 1924(大正13)年、日活京都撮影所と契約して、前借金7000円を借金にあえぐ劇団につぎ込み救済した。
 (ex.国家公務員の初任給が75円)
  
 1925年、服部義治は鉄道自殺した。

 嘉子は、「街の手品師」「大地は微笑む」「日輪」「彼をめぐる5人の女」など多くの作品に出演し、人気女優に。
 1927(昭和2)年、大作「椿姫」に出演中に、山田隆也との私生活の悩みなどを聞いてくれた共演者の竹内良一(23才)と、撮影を投げ出し、駆け落ちした。
 竹内は男爵の家に生まれ、お坊ちゃま育ちだったと伝えられている。
 二人は映画界から追放された。
 
 劇団「岡田嘉子一座」を結成し、地方をまわって暮らしをたてた。
 舞台の客は不入りで、借金だけが膨らんでいったと云う。

 
 東京に戻り、映画プロダクションを設立し、嘉子主演、竹内監督で映画を製作し売り込みを計ったりした。
 
 1932(昭和7)年、松竹蒲田撮影所から「日活撮影所時代の借金を肩代わりし、夫の竹内も復帰させる」との申し出があり、契約をした。
 しかし、松竹には、田中絹代、栗島すみ子、川崎弘子などのスターがいたので、嘉子が望む役は、回ってこなかった。
 また、竹内も役者の役しか回ってこなかった。

    当時の松竹には、有名監督が目白押しで、監督になれるのは、ほんの一握りで、多くは助監督どまりだった。
 衣笠貞之助、二川文太郎、井上金太郎、秋山耕作、野村芳亭など、そうそうたるメンバーだった。
 ちなみに私の父の恩師は、二川文太郎と衣笠貞之助氏です。
 
 岡田嘉子は、私の父・日夏英太郎が松竹京都下加茂撮影所で助監督をしていた時に接点があります。

  当時、下加茂撮影所は映画雑誌「下加茂」を発行していましたが日夏英太郎はペンネーム「湯浅みか」で
 同雑誌に岡田嘉子のことを記述しています。

      (下加茂アパ-ト ー下加茂は大騒ぎー) 『下加茂』昭和7年12月号

『それかあらぬか、蒲田の嘉ッちゃん事岡田嘉子が入れ代わりといったところで、「下加茂」へ来る。
 あの不良マダムの権化みたいな嘉ッちゃんが、人もあろうに時代劇のマタハリを演じようというのである。

 「どう?」とご感想を伺うと
  「どうもこうもないじゃないの、さっぱり色気がないわ。それに勝手が違うでしょ!クサリますわ」と来た。
 
  それはまあいいとして、下加茂でゆっくりさせてくれればいいものを、蒲田で他に2、3本かかっているのもあるし、その方にも出演しなくてはならないので、このところ下加茂、蒲田間を往ったり来たりである。
   もう既に往復すること3回。ひどい時には、朝来て、夜汽車でかえるーといった状態であるので
 

 「月は無常というけれど 月より撮影は尚無常だわ」
とアタイに嘉ちゃんはこぼしました。
  あゝスタ-またつらきかな』

 脇役だったり、思い描くような役がこず、岡田嘉子のくさり気味な気持ちが分りますね。

 1936(昭和11)年、再び舞台へ。
 
 
ロシア式演劇メソッドの指導者である杉本良吉の演出を受け、目から鱗となる。
 

   岡田嘉子は自伝「悔いなき命を」で「何しろこれまでしっかりした指導者を持たず、自分勝手な芝居作りをしてきたのです。それは根無し草のようなものでした。私にとってはまったく新しい演技論、芝居づくりを海面が水を吸い込むように吸い取っていきました(リアリズム演劇)」
 捨てるには、あまりに惜しい、今の情熱だ。お互いに大切に、大切にしたい」

 
 嘉子には別居中の夫・竹内がいて、杉本には病身の妻がいました。
 
 モスクワで岡田と接触のあった松沢さんは、下記のような嘉子の話を聞いている。

  嬉しさを表現するとき、「嘘だろ、ほんとに嬉しく思って演じてはないだろう」とズバズバと言われたことは、杉本以外にはなかった」と。
 
 そして「飾って綺麗だから君を主役にするけど、君は台詞を言ったら演技が出来ると思っているだろ。
 岡田嘉子だから観に来るのじゃないよ。一般の客は人間をみにくるのだよ」
 
 「自分が命をかける恋は、この人しかいないと、まず直感で感じた」と。

 1937(昭和12)年に、日中戦争が始まり、表現活動の統制が敷かれた(言論弾圧)。
 
 杉本は共産党員であり、反体制的な演劇を上演していたので、特別高等警察から思想犯として睨まれていました。
 
 
「いっそソビエトに逃げましょうか」
 
   嘉子36才、杉本32才の1937年の暮れに、上野から夜行列車と船を乗り継ぎ樺太へ(南部は日本領でした)。
 国境を見物がてら、警備員の慰問に行きたいと国境の町・敷香で警察署長に嘘をつき、翌正月3日に馬ぞりを出してもらった。
 
 やがて馬ぞりが止まるや、二人は駆け出して国境を越えてソ連へ。
 しかし、待っていたのはスパイ容疑での別々の場所での取り調べだった。
 独裁者スターリンによる粛清の時代で、もっとも不運な時期のソ連への亡命でした。

 
 嘉子と杉本は2度と会うことは叶わず、1939年10月20日に杉本はスパイ容疑で銃殺されました。
 岡田嘉子は、10年間いくつかの強制収容所で過酷な日々を送らざるをえなかったと言われています。

 *1945年8月15日に太平洋戦争で日本が敗れると、旧ソ連は旧満州や樺太、千島などにいた日本軍兵士や民間人をシベリアなどの収容所に移送して、過酷な強制労働に従事させた。
  約57万5000人が抑留され、シベリアで約5万3000人、モンゴルで約2000人が死亡したと伝わる(厚生労働省)

 
 嘉子は戦後、ソ連国籍を取得。
 モスクワ放送局で、日本語のアナウンサーを勤めた。
 1950年に同僚の滝口新太郎と結婚(48才)。
 ソビエト国立演劇大学に52才で入学し、卒業公演には日本の戯曲「女の一生」を演出した。

 1972(昭和47)年11月13日に夫の遺骨を抱いて日本へ帰国した(70才)。
 以後10年間、日本の映画や舞台で活躍後、モスクワへ戻った。
 1992(昭和47)年にモスクワの病院にて89才で死去した。

 私は、舞台での俳優の宇野重吉さんとの共演などをテレビで見たことがあります。
 穏やかに歳をとられ、激しく、過酷な人生を生きた方には見受けられませんでしたが、
「ああ、岡田さんが戻ってこられたのだな・・・」と30歳になった頃の私でしたが、とても感慨深かったのを覚えています。 
 
 


 


 

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