こらん草 (一筆抄)                    


―太平洋戦争を振り返って 1.―

                          
日本軍の快進撃          日夏 もえ子



  

 

 

         2015815日は太平洋戦争終結70年にあたる。
          
日本では、戦争を知らない人が7割に及ぶと言われる現在、戦中生まれの私は、
     この戦争について、幾つか記録しておきたいと筆を執りました。

          
太平洋戦争と、苦しい時代を生きなければならなかった人々に、思いを馳せていた 
           だければ嬉しいです。

 



     
「太平洋戦争を振り返って」 1.          2015年1月31

       ― 日本軍の快進撃 ―        
   
  
    
1.ハワイ真珠湾奇襲攻撃

        
連合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将は、機動部隊に「ニイタカヤマノボレ  
   1208
(128日攻撃せよ)の暗号電報を発した。

        1941(
昭和16)128日午前130(現地時間7日早朝)、空母6隻から出撃した   
        350
機が、ハワイ真珠湾の米太平洋艦隊と飛行場を奇襲攻撃した。
       
米戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」など5隻を沈没させ、200機に及ぶ飛行場の米軍  
        機を撃沈した。

      
午前322分、攻撃隊指揮官の淵田美津雄中佐は「トラトラトラ・・・」
      (
我れ奇襲に成功セリ」の暗号を電信員に打たせた。
      
真珠湾奇襲作戦を計画した山本五十六は、国民から名将と讃えられた。
      
しかし、この作戦にも予期せぬ誤算があったと言われる。

      
@真珠湾に米国の空母がいなかった。
        
海が浅く撃沈した戦艦が引き揚げられ、修復のうえ、以後の日本との戦闘に復帰
   した。
      
A野村吉三郎と来栖三郎駐米大使がコーデル・ハル国務長官に最後通告を手交した
         のは、攻撃開始後1時間以上も経過していた。
        
現地大使館員らに外務省から送られた暗号解読と清書作業に怠慢があったと言われ
         ている。

      
「これほど恥知らずな嘘とこじつけに満ちた文書は見たことがない」とハルは、
         2
人の大使を叱責したと伝えられている。

        
実は、F・ルーズベルト大統領、ハル国務長官らは、すでに外務省の暗号を解読
         していたので、最後通告内容と手交時間も知っていたと言われる。

       
  通告文最後のくだり
      
「合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立しようとする帝国政府の希望は
          ついに失われた。
        
交渉を継続しても妥結できないと認めるほかにない旨を合衆国政府に通告する」

        *
日米交渉の打ち切りは記してあるものの、最後通告、宣戦布告の明示は示され
          てなかったと言われる。

       「リメンバー・パールハーバー!(真珠湾を忘れるな)の合言葉のもと、米国は
          対日戦にもえる。

        
 2.マレー沖海戦

    日本は、シンガポールの南に位置する蘭印(現インドネシア)の油田地帯パレン
           バンを獲得することを目標としていた。
          
石油資源のない日本が戦争を遂行するためには、石油を確保する必要があった。
          
戦艦も空爆機も動かすことが出来ないからだ。

          
英領シンガポールを占領するために、真珠湾攻撃と同じ日の128日午前2時過
     ぎ(日本時間)、佗美浩(たくみ)少将率いる陸軍第23旅団が英領コタバルに上陸し、
           空港を占拠した。

          あわてた
シンガポールの英東洋艦隊は、「プリンス・オブ・ウェールズ」と
         「レパルス」2隻の戦艦に駆逐艦4隻をマレー半島に派遣した。

        
しかし、南部仏印のサイゴン(現ベトナム・ホーチミン)の飛行場から700キロを
         南下してきた日本の海軍機85機が低空飛行して魚雷を放ち、プリンス・オブ・
         ウェールズとレパルスは10日昼前にクアンタン沖で撃沈された。
        
英国首相ウィンストン・チャーチルは「戦争の全期間中で、かくも大きな衝撃を
   受けたことはなかった」と回想したと言われる。


    
3.
シンガポール攻略

         真珠湾攻撃より約2時間前に、英領マレー半島コタバルに山下奉文(ともゆき)司令
         官率いる陸軍第25軍の部隊が奇襲上陸した(現地時間7日午後1130)
   
タイ領シンゴラにも第5師団が上陸。

         目標は約1000キロ離れた英領シンガポールの英軍を破ることにあった。
        
5師団の先鋒隊は英領マレー(現・マレーシア)に入り、英軍を駆逐してシンガポ
        ール攻略を目指した。
        
航空隊・戦車隊の活躍が光り、また歩兵隊は自転車にまたがりゴムやヤシが茂る道
         を走り、「銀輪部隊」とも言われた。

         1942
131日には第5師団がシンガポール島対岸のジョホールバルに到達し、
    第25軍が集結。
        
日本軍は、シンガポール島に籠る英軍にジョホールバルからの水道を止めた。
        
そして15日にシンガポールを占領した。

        *
山下奉文司令官が「降伏」か「停戦」なのか煮え切らないパーシバル英司令官に
        
「イエスかノーかで返事をされたい」と迫り、降伏を認めさせた逸話は有名で
          ある。

           4.
蘭印攻略

       1942214日、蘭印(インドネシア)スマトラ島の油田地帯パレンバン上空に
         日本陸軍空挺部隊の落下傘が開き、製油所を確保し、飛行場を制圧した。
       
「空挺部隊」は空の神兵と呼ばれた。
 

          スマトラ島の東に位置するジャワ島バンドンには、蘭・米・英・豪連合軍が集ま
          り、軍司令部があった。
        
パレンバンを奪回されないため、今村均司令官率いる第1655千人がジャワ島を
         攻略することになった。
   対する連合軍の兵力は、8万人だった。

     16軍は東・中・西の3か所から上陸し、37日夜には、中野学校出の柳川宗成
         中尉が「バンドン1番乗り」を果し、蘭印陸軍長官テル・ポールテン中将に降伏を
         勧告した。
         3
9日、蘭印軍陸軍少将ペスマンは、バンドンの放送局から降伏宣言をした。

        
余談になるが、柳川宗成中尉は私の父・日夏英太郎が宣伝班にいた時に面識がある。
        
戦後日本へ帰国されたものの、再びご家族と共にジャカルタに戻り、晩年を過ごさ
        れた。
        
        
西部バンタム湾から「輸送船さくら丸」に乗り上陸をはかる面々には、飯田信夫
   (
作家)、大宅壮一(評論家)、大木惇夫(詩人)、横山隆一(漫画家)、北原武夫(作家)
   小野佐世男(漫画家)など多くの文化人が乗っていた。
   
みんな軍属として派遣され、軍宣伝班に所属することになる。

   
この「さくら丸」がバンタム湾で米英蘭豪連合艦隊からの魚雷を受けて沈没し、
   文化人らは、深夜のバンタム湾を漂流した。
   
詩人大木惇夫は詩集「海原にありて歌へる」で書いている。

      
昨夜(よべ)なりき、われら流れき、
      
すさまじき戦(いくさ)のさなか、
      
飛び入りて、重油をあびて
      
ひた泳ぎありし、かの海


   
漫画家の小野佐世男と私の父・日夏英太郎は軍政下に一緒に「ビンタン・スラバ
        ヤ」という劇団を率いて、ジャワ各地を巡回公演していたと言われる。
        後のインドネシア大統領
スカルノが観劇に来ていたと言う。

    
独立戦争後、父(インドネシア名 ドクトル・フユン)が劇団を率いジョクジャカル
        タで芝居の演出をしていた時も、スカルノが観劇に来た。
    父はスカルノと親しかったと伝えられている。

   
日本軍の蘭印攻略は1ヵ月程度で終わり、1945815日の敗戦までの3年半、
        蘭印を軍政下においた。
    現地の人々は、概ね親日的であった。
    長い間、オランダの植民地であり、その現地人蔑視政策に反発があったからとも
        言われる。

       
今村均第16軍司令官は、インドネシア独立運動の指導者であるスカルノやハッタな
        ど蘭印軍に捕えられていた政治犯を解放し、資金や物資の援助をしたと言われる。
    
日本軍兵士にも略奪行為などの不法行為を厳禁し、治安の維持に努めた。
   
蘭印軍から没収した金で各地に学校を建設した。
   
        1942
1120日には、第8方面軍司令官としてラバウルに赴任した。
   
高潔な人柄で、名将として知られている。

       
16軍は、連合軍と戦うためのジャワ防衛義勇軍「ペタ」などを作り、現地の青年
        に軍事訓練を行った。
   蘭印軍が降伏した時には、8万2千人余の将兵が捕虜になったと伝えられている。
        日本軍の捕虜に対する処遇は、厳しいものがあった。
        タイ・ビルマ間の素緬鉄道工事や東部インドネシア諸島の飛行場建設に従事させ、
   過酷な労働で命を落とした捕虜も多かったと言われる。

   日本軍が連合軍に敗れた直後の817日、スカルノがオランダからのインドネシア
        独立宣言をした。
       
インドネシア全土は「ムルデカ」の熱気であふれた。
       
オランダは再度インドネシアの植民地化をはかった。

      
インドネシア独立戦争に旧日本軍の兵士2千人ほどが参戦したと言われる。
      
日夏英太郎も映画・演劇活動で独立戦争に協力した。

       4
年間にわたる独立戦争で、オランダへの世界の風当たりは強くなり、アメリカな
       どはインドネシアを支持し、4912月インドネシア共和国が成立した。

    
*小野盛さん死去 (元残留日本兵で、最後の生存者)

     独立戦争に参加した小野盛さんが、2014825日に東ジャワ州の病院で死去
       した。94歳。
      
小野さんは、1919年に北海道で生まれ、42年にインドネシア・ジャワ島に出征。
      
独立戦争に参加した残留日本兵903人の1人で、その後も他の326人とインドネシア
       に留まり、現地女性と結婚し、地域経済の発展にも貢献した。
   
 (参照:産経新聞2014826)

    
*参照 「読売新聞」
        
「産経新聞」
        
「シネアスト許泳の昭和」内海愛子・村井吉敬著


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